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西陣織について
帯の技術

帯ときものが不離の関係にあることは言うまでもない。しかし、このきものの基になった小袖が、社会の主体的な衣服となったのは、室町時代中期以降のことであり、帯の歴史もまた近世初頭に始まったということが出来る。ここでは、そんな帯のうつりかわりをご紹介する。


■ 室町時代中期〜江戸時代初期

当初の帯は、内衣の紐が表面に表れたという程度のもので、表着である小袖も対丈(ついたけ)で身幅の広い仕立てで、幅も狭く、長さも短いものであった。また結び目も一定でなく、地質も表着の余裂(あまりぎれ)を利用し、平ぐけにするというのが普通だったようだ。しかし、桃山時代から江戸時代初期には、平ぐけ帯の他に、名護屋帯(なごやおび)と呼ばれる組紐の帯も用いられた。


■ 江戸時代(初期〜寛永・延宝時代)

江戸時代になって、小袖の形態は現在のきものにほぼ近くなったが、寛文前頃までは依然として一般の女帯は二寸乃至二寸五分幅で、六尺五寸ぐらいの長さであったようだ。結び方は突込帯(つっこみおび)といって、帯の端を巻きつけた帯の間にはさみ込んだ簡単なものか、花結びぐらいであった。しかし、寛永頃から、遊女たちはすでに五寸程の広幅の帯を用いていたようで、寛文、延宝の頃から、この広幅の帯は歌舞伎役者の上村吉弥(きちや)が、舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって、広幅尺長の帯が広く用いられるようになったと言われている。結び方も、この吉弥のそれを真似て、帯の両端に鉛(しづ)を入れ、結び余りがだらりと垂れるようにしたのを吉弥結びと呼び、非常な流行をみたと伝えられている。


■ 江戸時代(元禄時代〜)

次第に幅広となっていった帯は、元禄時代には九寸近い幅となり、長さも八尺から一丈二尺であった。地質も繻子(しゅす)、綸子(りんず)、モール、ビロード、緞子(どんす)、朱珍(しゅちん)、唐織などの他友禅、刺繍、紋等もあった。結び方も吉弥結び、水木(みづき)結び、カルタ結び、はさみ結び、ひっかけ結び、御所(ごしょ)結びなどの種類があった。

一丈二尺に九寸幅というのはほぼ享保以後帯の基準となり、結び方も更に種類が増して帯は女装美の中心をなすに至った。現在も行われている文庫(ぶんこ)結びは宝暦、明和の頃に始まり、また最も一般に普及している太古結びは、文化十年江戸亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者衆がそれにちなんで結んだ帯の形と言われている。


また後帯が多くなったのも文化文政からであり、帯留(おびどめ)をするようになったのも、ほぼこの頃からで、結び方も二十種類以上もあった。


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